長沼町の歴史
明治時代(明治4年〜明治44年)(1871年〜1911年)
  
検索画面へ 明治時代→大正時代 
明治4年(1872年)
 岩手県水沢藩家臣及び附近の移住希望者合わせて36戸が北海道開拓使の募集移民として出発する。移住民は3組に分れ3組の組長として吉川太左ェ門、妻枝勢一子鉄之助は、北上川を下り河口石巻港より出航、函館、佐原、室蘭、苫小牧、千歳を経て札幌平岸村に入り開拓に従事する。
明治7年(1874年)
開拓使測量隊、馬追山に第4標を建て、開拓使庁を望む。
明治8年(1875年)
1875.12.-開拓使、農業現実生徒取扱を定め、農村青年を募集する。
明治9年(1876年)
吉川鉄之助、開拓使募集の農業修学生となり、3等生、月給6円を受け、同年9月、農業勧奨のため一時帰村し、10月5日、開拓使学校雇となり札幌農学校校園に勤務し、クラーク博士の教えをうける。
明治16年(1883年)
川村トメレリーら、二百数十年住み慣れた千歳長部から本町フシコベツ(舞鶴)に集団移住する。
明治19年(1886年)
10月吉川鉄之助札幌より千歳を経由し、馬追原野植民地選定地夕張河畔(北長沼)を視察し、入植を決心した。
北海道庁技師内田瀞ら夕張原野を植民地選定地として調査選定する。その途次馬追山の一峯に登り「開拓の前途容易ならざるも、他日本道の穀倉地ならん」と記す。また夕張川徒渉中、空知集治監看守、渡辺大介に危うく熊と誤られた逸話を残す。(両者共に札幌独立教会の会員、吉川もまた同会員)
明治20年(1887年)
1887.5.-長沼町開基
 第一鍬者、吉川鉄之助及び渡辺伝二は千歳、三川、由仁を経由して馬追原野の夕張河畔に入り、木村勇次郎は開拓連絡のため一時札幌に留まる。
吉川鉄之助入植の地、東1線北18番地、後に東4線北18番地に移転、家族は妻イシ、長男寛、長女イチ、次女セツの計5人、渡辺伝二の入植の地、東四線北一七番地、家族は長男和一郎とその妻ヨネ、長男の子肇の計4人と推定される。和一郎は入植の翌年死亡、渡辺伝二も明治24年死亡
なお、吉川夫妻は入植に先立って4月19日札幌独立教会において大島正健により洗礼を受ける。
長沼町開基
貸付地の開墾大半成功するも、特にバッタと霜の被害を受けて馬鈴しょ以外の収穫皆無となり、夕張川の川魚などまた鹿などを売って食料に代え飢をしのぐ。
長沼町開基
当時、附近にはトマンリューとニセンカ及び下夕張鉄五郎(テッピリヤ)の三戸居住する。
明治21年(1888年)
1888.9.- 吉川鉄之助十町歩開墾の成績を上げ北海道庁から2頭引プラオ一基下付される。
1888.12.- 宮城県旧角田藩士、石田光親、泉麟太郎ら10人は本町西3線北12号附近夕張川左岸に未開地115万坪の貸下げをうける。
(後の真成社農場)
北部長沼で企業開拓の緒につく。
岩手県人中野軍助、東九線南七号に居住し、アイヌたちと狩猟を行うと共に、山間の渓流を利用して水田をつくり、初年度は3反歩で籾2俵を得た。
(本町稲作のはじまり)
平田類右衛門外1人は馬追原野(現北長沼市街地一帯)に187万5千坪の貸付をうける。
この年気候よく、大・小麦の生産順調となるも、移住民の大半マラリヤにおかされ、秋季の収穫不能となりほとんど放棄する。
明治22年(1889年)
工藤勘太郎は東6線北18番地において未開地1万5千坪の貸付をうけて開墾着手する。
この年村内の戸数状況。
確認できる者、吉川鉄之助、渡辺伝二、工藤勘太郎、山形権四郎、神田某、中野軍助、アイヌ系フシコベツ(舞鶴)13戸、幌内2戸北長沼1戸、企業開拓のため往来者、平田農場、夕張開墾企業組合。
角田−岩見沢間の道路完成する。(馬追とは栗丘のところで渡船でつなぐ)
明治23年(1890年)
1890.4.- 埼玉県人清水常蔵、京都府人江川伝蔵、福島県人山口儀幸、徳島県人島崎善九郎、福島県人久保田丈次郎、兵庫県人山形権四郎・福岡県人星野治一郎、福井県人杉田久左衛門外数名北長沼に移住しここに一部落を形成する。
春、山形県人前田歳近、栃木県人安城勘四郎、茨城県人所力之助外20余人をもって馬追沼西岸に260万坪の貸付を出願して前田歳近と牧田幸作はその許可に先立ち無願でフシコベツ(現舞鶴)に入植する。
江川伝蔵が夕張川に渡船を開始する。
清水亘、当時8歳のとき父増次郎と現7区に入植する。
囚人による幌内道路(由仁・千歳間)完成する。
明治24年(1891年)
1891.02.- 鳥取県人岡村三治、北長沼に入植、吉川鉄之助の北海道炭鉱鉄道の請負に従事、帳場として働き、また村内の行商を行う。(後の道会議員)
1891.08.- 山口県人竹永穐蔵・落合作蔵・田中虎之允ら北長沼に入地する。
1891.08.- 夕張開墾起業組合を分離し、新たに真成社農場を作り西4線13番地の夕張川附近に耕作者25人を入れる。(社長泉麟太郎、支配人泉鉉吉)
1891.10.- 茨城県人岡山峯吉、福島県人渡辺兵蔵及び高橋辰造ら西1線北11、2番地に入植する。
1891.12.- 吉川鉄之助児童教育の必要を認め、東1線北18番地(基線道路沿)に私設上長沼小学校を設置する。(木村教育の初め)
1891.12.- 西1線北12番地に真成社農場経営による私立真成社学校を開く。(教師泉鉉吉)
この年9月、3代長官全道巡視の途次馬追山の一峯に登る。(長官山名の由来となる)
明治25年(1892年)
1892.2.4 北海道庁令第5号を以て長沼村開村、村名設定にあたり開拓功労者吉川鉄之助の名をとって吉川村と名づけてはどうかの意見があったが吉川はこれを固辞し、附近にタンネトーというアイヌ語で、長い沼の意の沼があったので、これにちなんで長沼村と村名を決定する。
村界は庁令5号により、北東はマオイ山嶺より山脈通り、ユウニ川口を界とし、南東は千歳郡を界とし北西は夕張川を界とする。
1892.05.- 馬追原野植民地区画実測はじまる。
北部より中央部へ移転する者多数。(天野逸雲、竹永穐蔵・落合作蔵・田中虎之允・神代村次郎・岡村三治・中村千幹)
長沼村戸口内容、本籍人148人、寄留人203人、総数351人現在戸数80戸。
明治26年(1893年)
小史
由仁村に由仁外3か村戸長役場が設立される。
小史
馬追原野植民地区画実測となり、移民多く入る。
小史
由仁道路着工、由仁駅室蘭線につながり交通の利便が一新する。
1893.1.14 道庁令第1号で由仁村に由仁村外3か村(長沼・登川・栗山)の戸長役場が設けられる。(戸長村田定政−長沼村在籍)
1893.10.- 植民地区画の実測なり、基線・零号の確立。富山・兵庫・徳島・香川・福井その他の諸県から多数の移民入植する。
金崎佐吉、東1線北18番地で商店開業する。(本村商店の初め)
北海道道庁土木吏員の出張所設けられ、由仁道路の開削等の土木工事すすめる。(竹永の坂)
由仁長沼間の道路が開削され交通が一新する。
植民地区画なり夕張・千歳等馬追原野2,627万3,423坪確定する。
吉川鉄之助明治24年以来設立していた上長沼小学校はこの年夕張郡公設となる。
竹永の坂に小集落でき、市街地の予定地は、北7号道路沿に西1線までとされる。後に、現市街地に変更される。
由仁道路着工する。
由仁道路工事人、馬追鉱泉を発見する。
明治27年(1894年)
小史
由仁道路開削する。
小史
本村の気候がよく農作物は良好であった。
小史
運河工事が始まり、土木工事盛んとなり土工多数が入り活況を呈した。仏教僧侶布教に入る者多数。
1894.08.- 静岡県人飯塚角次郎、東2、北7の落合作蔵の小屋に附近の児童を集め、寺小屋式の教育をはじめた。(南尋常小学校の前身の一つ翌年飯塚退村により10月廃止)
1894.08.- 高木悌次郎、岡山峰吉ら西2線北12番地に私立訓寐陶小学校を設置する。
1894.09.- 馬追運河、幌向原野とともに運河排水が起工される。
1894.11.- 由仁道路完成、竣工を祝って同道路において競馬開催される。
栗山駅設置に伴ない北部農村は農産物搬出の便を得たので、吉川鉄之助、簡便な船橋を施設する。
明治28年(1895年)
小史
独立戸長役場及び浦役場開庁。(初め東1線北7番地、9月1日より市街地に新築開庁)
小史
長沼市街地貸付けはじまる。(市街地の発祥)
小史
この年水田17町あり。
1895.4.28 長沼巡査駐在所設置される。(小樽開墾会社の一隅に設置)
1895.5.1 道庁告示第46号にて長沼村戸長役場設置される。(東2、北7落合作蔵の小屋を使用)
1895.06.- 道庁告示71号により浦役場設置される。
1895.07.- 長沼郵便局設置される。(局長山田謙)
1895.9.1 新戸長役場庁舎落成する。(工費420円余、34.5坪、総代人神代村次郎、役場建築に対し、人夫75人分、価格30円を寄付する)
1895.09.- 西1線道路北17号−千歳川間国費で開削される。(架橋5、暗渠5ヶ所、村内初の南北全通道路)
1895.09.- 北12号道路幌向村に通じるものとして国費で開削される。(本村草創期の最重要道路)
1895.10.- 真成社農場解散される。(解散時移動戸数37戸、人口185人、成墾面積33万4,475坪)
1895.10.- 道庁告示第108号により市街地区貸付け更に翌29年道庁告示第144号により残区貸付け完了−85区画、74人、学校、(官庁、寺社を除く)家屋の建築はじまる。
1895.12.- 道庁補助及び村費にて長沼尋常小学校開校される。(修業年限3年)この年村内学令児童529人、うち入校する者男18人、女10人。
吉川鉄之助戸長就任と同時に基本財産造成計画をたて、西1線北17、18番地間に未開地6万坪、東3線北17番地に1万5千坪、外に原野19万5千坪、市街地予定地に2万9千坪を出願貸付けをうけ、本村基本財産の基礎をつくる。(村所有地1町5反歩、貸付地10万4千300余坪、備荒貯金の配当金164円=29年現在)
明治29年(1896年)
小史
馬追運河開通される。(10月1日)
小史
長沼市街地貸付終り、家屋60戸余建設される。
1896.06.- 馬追運河竣工、吉川浩平水車及び回漕業をはじめる。
1896.07.- 20日からの降雨により21日出水被害戸数155戸、畑浸水620町歩。
1896.10.1 運河通運開業される。(長沼−江別間)
1896.11.4 南尋常小学校開校する。校舎32坪を現役場前庭辺に建築、建築費391円(村費150円、寄付32円、道庁補助50円、村費賦課金157円、其の他)
明治28年5月北海道庁令第46号により本村に学務委員2人を置く。落合作蔵、松橋宇七。(本村始めての教育協議機関)
戸籍統計12月16日現在1,240戸。
本年主なる村内農産物。
粳米・大豆・粟・馬鈴薯・なたね・麻・亜麻・大麦・裸麦・小麦・養蚕。
明治30年(1897年)
1897.07.- 千歳村との村界問題解決、幌内は従来とおり長沼村とする。
1897.08.- 夕張川から運河に引水し、馬追運河の船便と、灌漑及び飲料水に利用する計画をたて、この月道庁長谷川技手を招いて測量を行った結果、東6線の夕張川より運河閘門まで12メートル強の落差があることから引水可能と判断する。(長沼用水事業の動機となる)
明治31年(1898年)
小史
大水害のため被害甚大多数の移民離村する。
小史
本村低地のため水害頻発するところから畑作から水田転換論起り用水路計画はじまる。
1898.09.- 5日からの降雨により大水害発生、夕張川沿岸村の被害甚大、死者70余名、本村も工藤勘太郎外10数人のでき死者を出す。
救助の為馬追運河会社の持舟活躍、吉川鉄之助架橋の夕張川舟橋流出、多数の農民離村、宮中から片岡侍従見舞のため来村する。
明治32年(1899年)
1899.7.14 道庁告示第183号により由仁村と長沼村の境界変更する。(由仁村市街山沿のイヤリケナイ川以北から長沼星野沢古川分を由仁村に編入)
1899.10.- 長沼郵便局、小包郵便及び電報事務を開始する。
1899.12.- 東2線北9番地に南尋常小学校の第4分教場設置する。(旧第二小)
明治33年(1900年)
小史
南北分村論活発。
小史
6月16日みぞうの大降霜で農産物大被害。
1900.4.30 野呂栄太郎西4線北13番地に於て父市太郎母波留の長男として誕生する。
1900.6.16 みぞうの大降霜、大・小豆、とうもろこし、馬鈴薯等大被害をうける。
1900.12.27 市街地40番地の村有地に警火番小屋設置する。
明治34年(1901年)
1901.01.- 長沼尋常小学校は東1線北18番地(基線道路沿)から東2線北17番地に建築し、同年4月唱歌、裁縫の2科目を加設し同年5月補習科をおく。
1901.04.- 幌内簡易教育所(旧第四小)を東10線南7番地に設置する。
1901.06.- 南尋常小学校に高等科を設置、なおこの年同校に唱歌、裁縫の2科目を加設する。
1901.09.- 上旬より連日の降雨で夕張川大氾濫洪水となり、かつ春以来の低温続きで農作物の生育が遅れ、水稲は1割4厘という大凶作となる。
明治35年(1902年)
1902.4.1 2級町村制施行、2級町村制第66条に基づき4月から7月までの仮予算を空知支庁長の許可を得て編成する。
1902.6.1 2級町村制施行により本村最初の村会議員選挙を行い定員2人を選出する。
1902.6.27 新議員による初の村会を南小学校の教室において開き7月9日までの間に10日間の議会を開催し、次のような規則など2級町村制の諸制度及び諸議案を議決する。(未だ条例の語用いず)
・部の設置規則(19部)
・基本財産管理規則。
・夫役賦課に関する規則。
・長沼墓地管理規則。
・伝染病予防救治に従事するものの手当金支給方法。
・灌漑用水起工調査委員設置の件(村会より5名選出)
1902.7.6 本村初の収入役に高久慶三郎を選任する。(助役は2級町村制により置かず)
1902.09.- 夕張川にはじめて馬追橋が架橋されて交通大いに利益をうける。
明治36年(1903年)
小史
春以来気温高く農作物良好。
1903.2.1 長沼村用水土功組合北海道庁長官から認可あり、村からも250円の補助を決定する。
1903.4.26 村内国費開削重要予定道路東3線を東2線に、変更決定、この年舞鶴橋(最初)を架橋する外東2線道路南3号から北3号まで及び西3線3号から運河まで及び千歳道路など新設計画される。
1903.12.- 東1線道路沿(現本町区)市街地宅地として貸付される。
水田産米収穫1等地反2石1斗9升7合(約375キログラム)12等地1斗2升。
明治37年(1904年)
小史
6月から7月にかけて明治31年に匹敵する大雨洪水、夕張川沿岸被害は甚大であった。
小史
日露戦争により村費縮減、道庁及び空知支庁長の予算検閲厳しくなり、村議会においても論議活発となる。
小史
2級町村制の実施状況ほぼ軌道にのる。
1904.03.- 南尋常小学校第一分教場は第三尋常小学校として独立する。(現南長沼小学校)
1904.6.30 大洪水発生、7月上旬までつづく。
1904.10.- 第二分教場(現舞鶴小学校)は敷地を変更し、鶴の棲む里にちなみ舞鶴尋常小学校として独立する。
明治38年(1905年)
小史
冷害凶作となる。
小史
長沼土功組合設立難航、ばく大な負債を抱える。
小史
高久慶三郎収入役辞任、篠原清村長死亡する。高木悌次郎村長に就任する。
小史
村議会は議員の役場金庫検閲や、議員収賄の風聞、学校敷地の変更、村役場の位置変更などで活発な論議あり、議場には南小学校の教室、誓報寺、本行寺などを使用する。
1905.03.- 今年度から南尋常高等小学校、高等科生徒から授業料(1人20銭)の徴収を決定する。
1905.07.- 長沼巡査駐在所新築(現本町区商工会館)する。
東2線道路零号、南11号間を国費によって、開削し零号から北6号までは翌39年開削する。
明治39年(1906年)
長沼村役場現体育館の所から本町区(消防長長沼支署)のところで移転する。(41坪の建物)
村立療病院1,290円で現本町区に建設する。
村会において長沼土功組合事業を村営とすることについて賛否分れ、活発な論議を得て結局否決される。
6月1日、2級町村制最後の村議会議員選挙施行する。
明治40年(1907年)
小史
1級町村制施行する。
小史
長沼土功組合設立される。
    畑 8,347町歩
    田  244町歩
1907.01.- 馬追山脈の中腹に零号簡易教育所設立する。
1907.3.18 この日から2級町村制下最後の議会4日間開かれる。
1907.5.31 1級町村制初の村会選挙、この日1級議員8人選出、6月1日2級議員8人選出。(有権者289人)
1907.6.18 初議会(会議場南尋常高等小学校)村会会議規則及び傍聴規則議決、これが認可くるまで休会する。
1907.6.24 再会、仮議長に野地糸吉当選、翌25日にかけて3役選出、村会議員高久慶三郎が村長に、助役藤惣治、収入役に高野池太郎三郎当選する。(41年高久村長旧姓中村に復す)
長沼商業組合設立される。(組合長松宮豊三郎)
明治41年(1908年)
小史
村会議事堂完成。
小史
冷害凶作。
小史
由仁新道開削。
1908.04.- 零号簡易教育所、教室及び住宅増築し、翌5月、第五小学校に昇格する。
1908.8.9 新議事堂完成し、初使用する。
 由仁新道開削完成する。
小学校児童数1,418人。(出席歩合92%)
明治42年(1909年)
小史
南6号排水運河大改修される。
小史
防火用兼飲料水道工事中止となる。
小史
中藪仁吉郎を二度にわたって助役に選出するも許可を得られず45年まで助役不在となる。
1909.08.- 南6号排水運河大改修される。
1909.11.- 中藪仁吉郎助役認可にならず、上席書記として就任、事実上の助役代行となる。
本年学校児童総数1,497人。
明治43年(1910年)
農民の出入多数、出70戸、361人。入82戸、384人。
伝染病流行し療病院を一時避離病院として8月から11月まで患者を収容する。(ジフテリヤ36人、内死亡5、腸チブス32人、ショウコウ熱1人、郷田安太郎医師を検疫医に嘱託)
1910.03.- 南尋常高等小学校2ヶ年を3ヶ年に延長する。(1年95人、2年31人、3年15人の見込)
1910.04.- 長沼土功組合一期工事着工、11月完成する。
上長沼購買販売信用組合設立(組合長松橋宇七、7月)される。
1910.07.- 配田内青年組主体となって配田内森林組合の前身(火防)をつくる。
明治44年(1911年)
小史
長沼土功組合完成により、水田開耕の目的を以って入村戸数増加させたが、7月と8月両月、大水害に見舞われ村民は困窮をまねく。
小史
伝染病流行に鑑み隔離病舎を新築、当時の農村としてはまれにみる施設と評価される。
小史
人口1万人を超す。
1911.6.17 数日にわたり馬追山官林火事、水上甚六外4戸全焼する。
1911.7.27 夕張川氾らん洪水となり難民救助される。
1911.8.16 この日から夕張川大氾らん995人収容救済する。(耕地被害2,580町歩)
1911.10.- 隔離病院完成する。(工費4千円余149坪)
水害救助船3隻新造する。
  
検索画面へ 明治時代→大正時代